コロッケ爆発事件−宮城大会決勝は引き分け再試合です。

こんにちは。
コロッケを人生で初めて失敗してしまった管理人のヒカルです。

さて、今日はこの悔しさを日記にしたいと思います。
そんなに料理が得意ではない私ですが、食べたい物があると作ってみたくなってしまいます。
日本だったらコンビニのお弁当でも充分おいしいのに。。。
海外の料理って、日本食に比べて油が多いので、毎日食べてるいと胸焼けしてくるのです。

さて、いつもどおりにコロッケ調理開始。
挽肉、じゃがいも、玉ねぎなどの材料に黄卵を加えてこねていきます。
そして小判形にして、空気を抜くために両手でキャッチボール。
まぁまぁの出来です。

この時点から悪い予感はあったんですが。。。

そしてコロッケは高温の油にダイブ!
上手に揚がれよ★

。。。。

待つこと数分。
そろそろ出来たかな★と思い油の中を見ると、、

ガーン!

すべてのコロッケが油の中で爆発!(泣)

見るも無残な姿に!

鍋の中では油まみれになった小さな物体が浮かんでいました。

ビッグバンコロッケの出来上がりです(笑泣)

結局、爆発したコロッケは食べれなくなり、油もコロッケの破片で濁ってしまいました。
油も捨てなきゃダメなのか。。。
二重ショックです。

結局、炊いてあったご飯とオイルサーディンに焼いたものに醤油をかけ、ネギを載せて食べました。
わびしい夕食です(泣)

さて、夕食後は何が原因かと思い色々と調べてみました。
コロッケが爆発しないようにするには

1.170℃〜180℃の高温で揚げる。

ふむふむ、これはちゃんとやったはず。。

2.パン粉をつける前にタネは冷蔵庫で冷やしておくこと

これか?

3.揚げる時は油の温度を下げないように、少量ずつコロッケを入れる。

な、なるほど。確かに全部一斉に投入したな。。

ん?

油の温度を下げないとか書いておきながら、冷蔵庫でタネを冷やす?
矛盾していないでしょうか???

どなたか教えてくださいマセ。
どの説が正しいのでしょう。。。

この一件でコロッケがトラウマになってしまうかもしれません。。

と、今日の日記は他愛もない管理人の小話でした。
夏の高校野球、今日で代表校がすべて決まるか!と思ったのですが、宮城大会決勝がなんと0−0の引き分け再試合。
楽天の試合日程の関係で、決勝が3日順延されたのが両校投手の疲れを癒したのは一因でしょう。
東北高校、仙台育英高校、明日も頑張れ!
熱戦を期待してます!

香川伸行−南海ホークスのドカベン。今夏、甲子園では香川2世が大暴れする!

こんにちは。
週末は配偶者の誕生日のため、家族サービスに尽くしたヒカルです。
更新が遅れてゴメンナサイ★

今回はドカベンの愛称でファンに親しまれた香川伸行さんです。

香川さんは中学時代からすでにその活躍は大阪で知れ渡っていました。
高校は浪商高校(現:大体大浪商)に進みます。
ここでキャッチャーとして牛島和彦(現横浜ベイスターズ監督)とバッテリーを組みます。
その当時浪商は決して強豪とは言えない高校でした。
しかし、2年時の秋の近畿大会では怪我をした香川抜きでチームは近畿大会を制するなどチームも力をつけていきました。
バッテリーを中心としてチームは力を付け、3年時の春の選抜大会では準優勝を達成。
夏の大会には3試合連続ホームランを記録するなど、すでにその打撃を披露していました。
当時から、その強力な打撃と体型で甲子園の人気者でした。

ちなみにドカベンの愛称は、あの水島新司さんの漫画「ドカベン」の主人公である山田太郎と似ていたことから付けられました。
体型、捕手というポジション、そしてその強打とそっくりですね。

1979年にはドラフト2位で南海ホークスに入団。
体型が問題視されましたが、プロ初打席でホームランをはなち、不安を一掃します。
その後も活躍を続けるものの、香川選手の体重は増え続けていきます。
ついにはその体重の影響か、成績が下がっていきます。

南海も香川の体重を気にして様々な指令を出します。

1987年のオフには体重測定で体重が130kgを超え、減量のため2ヶ月の入院生活をおくります。
これは当時監督の杉浦監督が

選手生命以前に、人間として命にかかわる

と心配したためとされています。
また、1989年のシーズン前には、

太り過ぎ

の理由でハワイ行きが認められず、日本で居残り練習となったというエピソードもあります。

その体重が原因でしょうか、香川は1989年、球団名が南海から福岡ダイエーホークスに変更したのを機に、27歳の若さで現役を引退します。
その後も野球解説者を務めたり、野球学校を開設したりと精力的に野球の活性化に努めています。
2005年には社会人クラブ「福岡ブラッサムズ」を結成、地域野球の盛り上がりにも一役買っています。

結局は、その体型ゆえに引退を早めてしまった感はありますが、その体型だからこそ豪快な打球でファンを魅了し、愛されたのだと思います。
大日本肥満者連盟からも、肥満者のイメージアップに努めたと表彰を受けています。
引退時にもファンからはひときわ大きな歓声をおくられたことからも、その人気を見ることができます。

もう香川の勇士は見ることができないのでしょうか?

いやいや、今年の夏の甲子園で見ることができるかもしれませんよ。
香川さんの長男、香川英斗君が通う福岡工大城東高校が、福岡大会決勝で柳川高校を破り、夏の甲子園へのキップを手に入れました。
英斗君自身も代打の切り札として、福岡大会準決勝の筑陽学園戦でサヨナラ安打をはなちました。
体型も、打撃も香川さんにそっくりです(そこまで太ってはいませんが(汗))。

今夏の甲子園スタンドでは熱心に息子さんを応援する香川さんの姿が見れることでしょう。

そういえばドカベンといえば、新潟明訓高校は新潟大会決勝で惜しくも負けてしまいましたね。。
日本文理強し!

川藤幸三−怪我を乗り越えた武士。阪神の打撃の切り札【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

はい、こんばんは。
管理人のヒカルです。
以前書いた秋田大会準決勝の本荘高校の記事にそこそこ反響があって嬉しいです★

今回は野球解説者としても皆さんにお馴染みの川藤幸三さんについて書きたいと思います。

さて、川藤と聞くと皆さんどんなイメージがあるでしょう?
通称は「浪速の春団子」。
代打の切り札的存在でもあった川藤は、打撃の選手というイメージもあるかと思われます。

でも、実は若手時代の川藤は足が速く、肩は強かったが打撃は使い物にならないといった選手でした。
ウェスタンリーグでは盗塁王も獲得したことがあるほどです。
一軍で守備固め要員として、そこそこ出番があった川藤ですが、1975年のキャンプ中にアキレス腱断裂という大怪我を負ってしまい、その後2年間を棒に振ってしまいました。
この怪我をきっかけとして、川藤は自分のアピールポイントがもはや通用せず評価もされないことを悟り、打の専門としての道を歩みはじめます。
当時は、川藤の打撃は全く信用されておらず、

逆に代打を送られる

ほどでした。

川藤が打撃をアピールポイントにしたいとコーチに告げたところ、


「(打撃は)新人の方がマシや」

と屈辱的な一言を発せられます。
まぁ、その時点まで川藤の打率は2割程度ですからそれも仕方ありません。

その一言で奮起した川藤は猛練習のすえ、着々と打率を上げていき、代打の切り札として活躍します。

打撃専門家!かなりの打撃成績を残したのでしょうか?


川藤幸三)

通算打率:2割3部6厘

・・・・。

全然打ててません(泣)

達川でさえも通算打率は2割4部6厘。



ま、まぁ、本塁打は結構打ってるでしょう(汗)


川藤幸三)

通算本塁打数:16本

ご参考までに、
投手として通算本塁打数1位に輝く金田正一さんの本塁打数は36本

ダブルスコア以上で敗北です(泣)

成績だけを見ると、際立ったものではありませんが、やはりその豪快さゆえでしょうか、打つイメージが多くのプロ野球ファンに焼きついてますよね。

記録よりも記憶に残る選手。私はそうゆう選手の方が好きです。
打席に立つ際に口に含んだ水を毒霧のようにバットにパフォーマンスも好きです。
現在でもモルツ球団でこのパフォーマンスを行っています。

川藤さんのように皆に愛され、あれほど豪快なキャラクターは現在のプロ野球を見渡してもあまり見つかりませんね。

自分のウィークポイントであった打撃を逆に売りとして活躍の場をつかんだ川藤さん。
こういうマインドを現代人の私達も見習っていきましょう。

現在も川藤節は絶好調。
野球解説者として、ファンにプロ野球の魅力を存分に語ってくれてます。

そして、阪神の代打の切り札の勝負強さは、その後の八木裕選手の活躍によって受け継がれました。

ちなみにこの「背番号三桁」という本は阪神タイガースで野球に関わる裏方さんたちのインタビューを集めた本です。この中でも川藤の猛練習ぶりとそれを支えた裏方さんの話がのっています。
個人的にはかなりヒットした本です。
興味のある方はぜひ読んでみてください。

鈴木孝政−ドラゴンズの初代抑え投手?!長嶋親子と公式戦で対戦した唯一の投手。【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

今回は元中日ドラゴンズの鈴木孝政さんです。


苗字に特徴がないので管理人としては若干印象が薄いのですが(失礼)、その成績、功績を見るとすごい投手だったのがわかります。

高校時代の鈴木は千葉の成東高校で野球に励みます。
甲子園の出場こそ叶わなかったものの、関東高校野球界ではかなり名が知られた投手だったようです。
当初、鈴木は大学進学を希望していましたが、やはり評価がかなり高かったのでしょう。中日が猛アタックをかけ、ドラフト1位で指名。
鈴木もその熱意に負け、入団を決意します。

入団2年目の1974年には、すでに登板回数が30試合を越える活躍を見せます。
主な役割はロングリリーフを含む救援投手でした。
1975年には21セーブ、1976年には当時のシーズン最多セーブ記録(26セーブ)を打ちたて、最優秀防御率と最優秀救援投手のタイトルを獲得します。
1977年には9つのセーブながら、前年に続き、最優秀救援投手に輝きます。
セーブ数が9つのタイトル獲得ですから、当時はいかに「クローザー」という役割が確立されていなかったかがわかります。

江夏豊が抑え投手のパイオニアと言われますが、江夏がリリーフに転向したのは1977年であり、鈴木が抑え投手の先駆者と言えるかもしれません。

順調に活躍を重ねていた鈴木ですが、肘の故障で戦列を離れることになってしまいます。
その肘の故障で、以前の速球は失われてしまいます。
そのため、鈴木は投球スタイルを変更し、緩急と丁寧にコースをつく「打たせて取る投球」で復活します。
1982年にはリリーフ投手から先発へと転向。
先発した初めての試合では、いきなり完封勝利をあげました。
その後も先発として、1984年には16勝8敗の成績で「カムバック賞」を受賞しました。

打撃においては

センターゴロを記録(阪神戦)

したことがある珍しい選手です。

1989年に現役を引退しますが、その後は中日のコーチ、野球評論家として活動。
なお、鈴木は中日の投手として球団史上最多の586試合出場という記録を持っています。
実働17年という長い期間にわたり活躍したからこそ生まれた記録。
長嶋茂雄一茂の親子と公式戦で対戦したのは、この鈴木しかいません。
こんな所にも長く第一線で活躍した跡が見て取れますね。

昨日は若干ふざけすぎたので、今日は真面目に書いてみました★
取り上げる人物によっても、だいぶ違ってくるのですが。。

管理人緊急逮捕?!警察との24時間におよぶ攻防!って言ってもただの日記です。【プロ野球チーム★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

はい、今日の日記です。

今日は野球ネタじゃないです。
普通の日記、というか恐怖体験です。

実は私は海外に在住しているのですが、
昨日仕事から帰ってくるとドアに白い物体が。

なんだ?

と思って見ると、名刺です。

しかも警察の(泣)。

名刺に警察署の住所、電話番号と共に

「緊急!」とコメントが(泣)

なに?

警察が私を探してる。しかも緊急。

麻呂は何も悪いことしてません(笑泣)

この国は旧共産圏の国で、役所の対応が非常に悪いのです。
しかも相手は警察。

最悪のケースです

殺人容疑か?

強姦容疑か?

麻薬取締りか?

そんなことしてません(大泣き)

すぐに警察署に急行しますが、案の定名刺にあった住所の警察署はすでに閉まっています。
電話しても誰も出ません。

明日か。。。

昨日の夜は走馬灯のようにすべてがグルグル回っていました。

もし、容疑をかけられて刑務所行きになったらどうしよう。。。

仕事も失い人生終わりだな。。。

そういえば、空港で外国人から荷物を特定の住所に配達するのを頼まれて、空港の税関で開けてみたら麻薬だったって事件もあったな。。

日本に帰れるのかな。。。

今考えると非常にアホな発想なのですが、警察が「緊急」ってきたらやっぱりビビります。

そして、今日は仕事を早く切り上げて警察署に向かいました。
(信じられないことにその警察官駐在事務所の営業時間は16:30−17:30の1時間だけなのです)

警察に行く前に、人生最後の一杯になるかもしれないと思いながらビールをゴクリ。。。

ああ、甲子園見たかったなぁ。
次の横浜ベイの優勝見たかったなぁ。

と思いつつ警察署に到着。

私:「すみません、昨日ドアにこれがはさまっていたんですけど。。」

警官:「こっちへ来い」(ひえぇ〜!)

(取調べ室みたいな場所に連れて行かれる管理人)

警官:「身分証明書を出せ」

私:「はい、どうぞ、、、」

(警官、私の住所等を何か申請書のようなものに書き込む)

私:「あの〜、何が起こっているんですか?」

警官:「あとで説明する」(←早く言え!怖いって!)

(警官、一通り記入)

ここで警官が重い口をやっと開く。

「え?ええええええ〜!」

特派員は驚いた!(←ネタ古い?)


警官:「君は外国人用のIDカードを前に警察署で発行しただろう?その住所に本当に本人が住んでいるかどうか確かめているんだ。最近は偽造して入ってくる外国人も多いからね。やっぱ緊急って書いたのがよかったのかな。君は一番乗りだよ、ハッハッハ」

↑ハッハッハじゃないよ!
本当に恐怖だったんだから!と思いつつ、一安心。

その警官は親切な人でコーヒーをご馳走してくれました(外は暑いのに。。)。

というわけで、心の霧が晴れました。
昨日は不安でブログを更新していても、「あぁ、これが最後の記事かもなぁ」なんて思ったものです。

海外生活は驚きがいっぱい、時には刺激的すぎて胃が持ちません。

さて、容疑が晴れたしこれからビールでも飲むかな♪

高校野球は一関学院、岐阜城北など選抜で活躍したチームが敗退しましたね。
三重では優勝候補筆頭の宇治山田商業が敗れました。

甲子園への道は厳しいですね。。

と今夜はお開きにしたいと思います。

管理人の駄文、ただの日記に付き合ってくださいまして有難うございました。

宇野勝−プロ野球界の歩く珍プレー。でも守備は結構上手いんです。【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

こんにちは。

昨日は宇野さんの「伝説のヘディング事件」をお伝えしましたが、今日はその続編です。
今日は宇野勝さんがテーマです。

宇野は銚子商業時代に1976年の夏の甲子園に出場。
その頃の千葉は最強時代であり、2年連続して千葉県代表が夏の甲子園を制していました。
それに続いて宇野もチームを牽引した、と書きたいところですが、

甲子園ではヒット1本

に終わっています。

結局、銚子商業はベスト8で敗退。
千葉県代表の三連覇は潰えました。
しかも、この銚子商業の敗退はその後10年間、千葉県代表校がベスト8にも進出できないという

暗黒時代をもたらしたのです。
(1987年に習志野高校がベスト8に進出)

さて、上記からもわかる通り、宇野氏が打撃を評価されてプロ入りしたわけではないのは明白です。

そう、守備を評価されてのプロ入りだったのです。

中日に入団した宇野ですが、良い意味でも悪い意味でもスカウトの期待を裏切ります。

良い意味)
本塁打を打てる大型ショートとしてレギュラーの座を不動にします。
1985年に自身が記録した年間41本塁打は、遊撃手の年間本塁打記録でまだ破られていません。守備に気をつかうショートというポジションでは、かなりの大記録です。

悪い意味)
はい、これはもう一言で。

伝説のヘディング事件

↑が有名ですが、実際は宇野選手の守備はそんなに下手ではありませんでした。
イメージというものは恐いですね。


宇野氏が解説を勤めた阪神−中日戦で、中日の福留孝介選手がエラーしたのを見て、

「下手ですね〜」

とコメント。
宇野氏が言うと、なぜか笑えてしまうのが不思議です。

その他には、横浜スタジアムで行われた横浜戦で、ライトのエラーで出塁した宇野が全力で次塁を狙い、

一塁走者を追い抜きアウト

というかなりの珍プレーもありましたが、ヘディング事件の意識が強すぎて後世にあまり伝えられていないのが残念です。

本当に憎めないキャラの宇野さんです。
その性格からでしょうか、星野仙一、落合博光など大物にも可愛がられています。
打撃に関しては、落合は宇野を信頼していたようです。

さて、中日で大活躍していた宇野ですが、1993年には千葉ロッテに移籍をします。
ロッテは千葉に移転が決まり、千葉県出身のスターを獲得したいという意向がありましたが、結局ロッテでの宇野は奮わず、94年のシーズンを終えて現役を引退します。

愛されるキャラクターの宇野さん、これからも私たちに笑いと感動をお願いします!

最後に余談ですが、宇野さんをかたどった

「ウーヤン人形」

なるものが昔存在しました。

はい、不気味でした。。。

今回はなんか珍プレー特集みたいになってしまいました(反省)。

スポーツの醍醐味、珍プレー!宇野の伝説のヘディング事件【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

今回はスポーツの醍醐味とも言える珍プレー事件を紹介します。
皆さんもご存知、珍プレーといえば真っ先にあげられるあの

伝説のヘディング事件

をテーマにしてみましょう。

と言っても、ジダンのマテラッツィに対するヘディング事件ではありません。
あれは珍プレーじゃないですよね(汗)

時は1981年8月26日。
後楽園球場では巨人−中日の試合が行われていた。
この試合はプロ野球ファンならずとも大きな関心を持って見られていました。
巨人はその日まで159試合連続得点中。つまり1年以上完封負けをしていない無敵の状態です。
これに宣戦布告したのが熱血星野仙一投手(現阪神シニアディレクター)。
星野はこの巨人戦を前に完封宣言をして、注目を集めていたのがこの試合。
巨人戦は全国放送。
全国民がテレビの前にかじりついて観戦していました(多分)。

その日の星野は絶好調。
巨人打線を全く寄せ付けず試合は進みます
星野完封かと思われた試合の後半、

その悲劇は起こった!

巨人の山本功児の打った打球は高々とフライとなり、宇野が追いかける!

そして、

そして、

世紀の珍プレー、ヘディング!

巨人に待望の1点が入る。

うずくまる宇野。

そして、ホームベース上で鬼の形相でグラブを叩きつける星野!

どうする?

どうする宇野?

ベンチで星野は大激怒!
恐怖に怯える宇野!

ただ、その後が星野の優しさで、試合後には宇野をご飯に誘ったそうです。
結局、宇野はご飯の誘いを断ったようですが。。。

このプレーは宇野の知名度を大きく向上させました。
プロ野球珍プレー好プレーでも必ず「珍」の代表として、このヘディング事件は紹介されます。
インタビューで宇野氏が言うには、当時は風もなく、照明が目に入ったわけでもなく、言い訳はない、とのこと。

なお、元々宇野選手は守備が評価されプロに入ったのですが、このプレーの印象が強すぎて一度もゴールデングラブ賞をもらったことがありません。
ゴールデングラブ賞は記者投票で選ばれるため、記者さんの頭の中に、あのプレーのイメージがその後何年も離れなかったってことですね(笑)。

ちなみに、この本はプロ野球珍プレーの本ですが、値段は1円?!

コレはメジャーリーグの珍プレーDVDです。

鹿取義隆−欽ちゃん球団コーチからWBC日本代表コーチへ【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

今回は鹿取義隆さんです。
巨人、西武でリリーフとして長年活躍されていました。

高知商業、明治大学を経て、1978年のオフにドラフト外で巨人に入団します。
1978年といえばあの「江川事件」で、巨人がドラフトをボイコットした年です。
プロでは1年目から1軍入りし、着々と実績を築いていきます。

鹿取投手といえば、王監督時代の

「ピッチャー鹿取!」

が有名ですね。
子供時代に読んでいた漫画「かっとばせ、清原君」でも「ピッチャー鹿取!」がネタにされていた記憶があります。
この「ピッチャー鹿取」と、身を粉にして働かされる意味として使われた「カトられる」は流行語となりました。
逆に鹿取自身は毎日投げて調整するタイプのピッチャーであり、肩のスタミナはないが肩の回復力は驚異的だったため気にしなかったらしいです。
1軍で毎日投げられる幸せをかみしめていたのでしょう。

その後、一時期の不調はあったものの、西武移籍後は復活。
移籍1年目には最多セーブを記録し、最優秀救援投手賞を受賞し、その後も貴重な中継ぎ、抑え投手として西武の黄金期を支えました。

その容姿にも良い人オーラが出ている鹿取さんですが、シーズン後の契約更改では1発サインすることで有名でした。
ある年の契約更改では、1回目の交渉で「保留してみたかった」という理由で初めて保留し、2回目の交渉で

減額提示されながらもサイン

をしたというエピソードがあります。

さて鹿取さんは1997年のシーズンを終えて現役を引退。
巨人のヘッドコーチ、米国大リーグのロサンゼルスドジャースにコーチ留学、台湾の誠泰コブラというチームで臨時コーチを務め、2005年からは欽ちゃん球団「茨城ゴールデンゴールズ」のヘッドコーチとして活躍、その後は日本中が注目したWBC(ワールドベースボールクラシック)日本代表コーチに就任しました。

ドジャースへのコーチ留学時代には、無給で頑張っていました。
ここにもお金に頓着せずに夢を追いかける鹿取さんの性格があらわれていますね。
マイナーの選手には

「お前は野球やったことあるのか?」

と聞かれるなど(大投手鹿取になんて失礼な!)色々と苦労されたようですが、最後には実力を認められ、帰国の際には「また来てくれよ」と言われ涙のお別れでした。

余談ですが、存続が決まった欽ちゃん球団では息子の鹿取真央氏が活躍中です★
これからも頑張れ、鹿取親子!

お、そう言っているうちに鹿取さんの母校、高知商業が高知県大会決勝で強豪の明徳義塾高校を破り甲子園出場決定!
おめでとうございます。

高校野球:あなたの甲子園の楽しみ方は?−青森県と一戸君、子比類巻君【プロ野球★★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

高校野球、続々と県代表が決まっていますね。
今日は注目の青森県代表が、青森山田高校に決まりました!
青森大会3連覇の快挙、青森山田の皆さん、オメデトウございます。
甲子園でも大暴れしてきてください。

一方、敗れた光星学院も優勝候補の名に恥じない戦いぶりだったと思います。
もう一度、甲子園で今年のチームを見たかった気もしますが、、、
この悔しさをバネに来年頑張ってください!

さて、今日の日記のテーマに移りましょう。

甲子園は、もちろん各県代表による熱戦も注目ですが、私にはもう一つの楽しみ方があります。

それは出場選手の名前です。

1999年の代表校、青森山田高校。
この時はエースに松野君という好投手がいました。
球は決して速くはないものの、その体格を活かした重い速球をズバッと投げ込み、あれよあれよと準々決勝まで進出しました。

1回戦から準々決勝まで、相手はすべて九州勢。

九州大会か?

という組み合わせでした。
準々決勝では鹿児島代表、樟南の上野君の前に完封されてしまいましたが、見事な戦いぶりでした。
甲子園では8強でも、九州大会なら準優勝の快挙です(笑)。

さて、このチームを引っ張っていたのが4番打者で主将の一戸(いちのへ)君。
青森出身の方なら「あ、青森県出身だな」と苗字でわかるはずです。
最近は、野球留学が問題にされていますが、県内の強豪私立でもちゃんと青森出身の球児は頑張っているのです。
「小比類巻」という苗字も青森に多い苗字です。
K−1で活躍中の魔裟斗選手のライバル、小比類巻貴之選手も青森県三沢の出身です。
そんな地域特有の苗字が探すのが、私の甲子園の楽しみの一つです。
秋田県代表にはほぼ毎年、「佐藤君」がいます。
沖縄代表には「金城君」、「比嘉君」がいるように、青森県にも「一戸君」や「小比類巻君」がいるのです。

あなたの出身県の特有の苗字、甲子園で探してみてはいかがでしょう?

青森とは別の県の代表で、「小比類巻君」がいると「あ、お父さんかお母さんは青森の出身だな。他県で頑張ってるんだな」とニヤリとして応援してしまうのです。

そんな楽しみいっぱいの夏の甲子園。
もうすぐ開幕です。

今日は駒大苫小牧が南北海道代表に決定しました。
駒大苫小牧の夏3連覇なるか?注目です。

今日も仕事が手につかず、リンクさせて頂いている「野球ちゃんねる青森
さんの試合速報掲示板をずっと見ていました。

熱い夏がもうすぐやってきます!

あなたの甲子園の楽しみ方は何ですか?

遠井吾郎−阪神タイガース一筋の「仏様」。カーブで牽制球事件。【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

今回は「仏のゴロー」こと元阪神タイガースの遠井吾郎さんにスポットをあててみたいと思います。

遠井は1957年に山口県の柳井高校を卒業後、阪神タイガース(当時は大阪タイガース)に入団、1963年には念願のレギュラーを獲得します。
その長打力は魅力で阪神の4番打者を努める一方、足が遅かったため守備範囲には若干不安がありました。
その鈍足ぶりは20年の現役生活で、

盗塁はたったの22個。

その割には、オールスターゲームでランニングホームランを記録する

ある意味離れ業

をやってのけます。

その体格から、江夏豊、田淵幸一と共に

阪神相撲部屋

と揶揄されていました。
しかしその愛嬌で故でしょうか、遠井を慕っていた選手も多くいたようです。
川藤幸三を筆頭に、江夏豊も遠井がファーストを守っているとホッとすると語っています。

江夏投手がカーブで牽制球を投げたのは後にも先にも仏のゴローに対してだけでしょう。

その時も仏のゴローも「いいかげんにせぃよ!」とニコニコしながら言っていたようですが。。

なお、遠井は阪神一筋で現役生活を20年続けています。
これは阪神の歴代選手の中で最長記録です。

そんな仏のゴローですが、1977年には現役を引退。阪神のコーチを経験するも、その後は地元山口で飲食店の経営をしていました。
残念ながら2005年6月に、肺がんのためお亡くなりになりました(享年65歳)。
ご冥福をお祈りします。
きっと、今年のタイガース選手の活躍を天国から「仏のゴロー」として温かく見守っていることでしょう。

大矢明彦−横浜の名監督とものまね王座決定戦の名審査員【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

今回は元横浜ベイスターズ監督の大矢明彦さんです。

大矢は名門早稲田実業(今春の選抜大会にも早実は出場していましたね!)を卒業後、駒沢大学を経て、なんとドラフト7位でヤクルトに入団します。

大矢ほどの名キャッチャーがドラフト7順目指名とは、、、
本人の努力もあったでしょうが、やはりドラフトは運もあるのかなぁ、と思ってしまいます。

ポジションはキャッチャー。
ヤクルトのキャッチャーと言えば、今や古田の代名詞と言えますが、球団の伝統なんですかねぇ。。。
中日の抑え投手も、いつも安定感抜群ですし。
球団の伝統ってものはあるのかもしれないですね。

さて、選手時代にもべストナイン2回、オーススター出場7回、5度のゴールデングラブ賞に輝くなど、凄い実績の持ち主ですが、今日はやはり横浜の監督時代の話をさせてください!

1996年より横浜の監督を任された大矢氏ですが、97年にはよもや優勝!という2位という成績をおさめました。
選手がノビノビとプレーしていたのが印象的です。
選手にしては非常に良い監督さんだったことでしょう。

その一方で、あの穏やかな雰囲気からは想像も出来ませんが、頑固な一面もあったそうです。
1996年のオフには、球団がヘッドコーチ格の弘田澄夫を解任しようとした時には、強硬な姿勢を球団側に示しています。
弘田氏が解任なら、大矢自身も監督を辞任すると球団に迫りました。
球団はその熱意に圧され、弘田と共に大矢の続投が決定。
今思うと、あそこで大矢氏が解任されていれば1998年の横浜の優勝はなかったのかなぁ、とシミジミ思っています。

1997年を終えて、大矢氏は辞任しますが、その意思を引き継いだ権藤博が横浜を久々の優勝に導きます。
優勝の土台は、まさに大矢氏が作ったと言っても過言ではないでしょう。


横浜ファンとしては、まだまだかなり書きたいことがたくさんあるのですが、長くなってしまうのでこの辺で。。。

ちなみに大矢氏は野球解説と共にタレント活動も結構活発ですよね。
「ものまね王座決定戦」にも審査員として出演したりしています。
同番組では、審査員として褒める際に

本物よりそっくりで驚きました

とコメント。会場の爆笑を誘いました。
大矢氏の人柄が出てるコメントだと思います。

次回は権藤博氏をレポートします!、、、、と言いたいところですが、この流れだと横浜寄りになってしまいそうなので別の人にします。

権藤さんは日をあらためてレポートします★

高校野球秋田県大会:本荘高校「故意の三振指示」に見るプロ野球「平和台事件」(西鉄VS毎日)【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

こんにちは。

高校野球夏の選手権県予選では全国各地では続々と代表校が決まっていますね。
その一方で雨により大会の日程が大幅に遅れている県もあります。
関係者の皆様、ご苦労様です。

さて、秋田県大会では本荘高校が18年ぶり3回目の出場を果たしました。
その本荘高校、準決勝の秋田高校戦で監督さんが雨天ノーゲームを防ぐため、

故意に選手に空振りを指示

してゲームの進行を速めようとした采配が物議をかもし出しています。
高野連も本荘高校に始末書を提出させるようです。

このニュースを見て、昔読んだプロ野球の「平和台事件」について思い出しましたので、今回はそれをテーマにしたいと思います。

「平和台事件」

時はさかのぼり、1952年7月16日。
この日は平和台球場西鉄ライオンズ毎日オリオンズの試合が行われていました。
梅雨の影響で試合開始が2時間ほど遅れ、プレイボールは16時55分となりました。
都合の悪いことに、当時は照明施設などありません。
その日の日没予想時間は19時29分。
それまでに試合が終わらないと、何も見えない状況になってしまいます。

悪いことは続くもので、雨の影響により2回表に15分、3回裏には西鉄が5−1とリードした時点で約1時間の中断がありました。
本来ならば、雨で1時間以上中断し、グラウンドの状態が回復しない場合には雨天ノーゲームとすることができるのですが、グラウンドに砂を撒き、審判団は試合続行させます。

もうヤケクソです

さて、試合展開の方は4回裏の西鉄の攻撃時点で4−5、西鉄のリードです。
当時毎日総監督の湯浅禎夫は、この状態ならば次の5回の攻撃で毎日が得点しなければ、雨の影響で試合が終わってしまう可能性があると考えたのでしょう(5回終了の時点で試合は成立する)。
執拗な時間稼ぎに出ます。
タイムを執拗にかける、選手をベンチに戻させ水を飲ませる、スパイクの紐を結びなおす、西鉄打者が打った打球を選手はわざと落球。

もうなんでもありです。

この間にスコアは4−9と5点差に広がりました。
そして、5回表をむかえる平和台球場。
湯浅総監督は「もう暗くて、何も見えない」と審判団にアピール。
これが認められ、試合はノーゲームとなりました。

これに怒ったのが西鉄ファン。

降り注ぐ雨の中、

試合が何度も中断し、

露骨な時間稼ぎ作戦を見せられて、

終いには試合成立直前でのノーゲーム。

踏んだり蹴ったりです

西鉄ファンは激怒し、グラウンドに乱入。
まずは審判団を取り囲む。これに恐怖を覚えた審判団は毎日ベンチを指差します。

審判団、壮絶な裏切り

ここで西鉄ファンは毎日ベンチを総攻撃。
西鉄選手も必死になり、暴動をくい止めようとしますが焼け石に水。
西鉄ファンの総攻撃を浴びながらも、毎日選手団は辛うじて球場を脱出します。
この時、平和台球場には3000人を超える警官隊が動員されたそうです。

三国志の一個師団並みです。

さて、宿舎に帰った毎日ナインですが、それでも西鉄ファンの怒りは収まらず、宿舎にも西鉄ファンが殺到。深夜まで騒動が続きました。

後日談ですが、この騒動により湯浅総監督は解任され、若林忠志監督は二軍監督に降格し、別当薫選手が選手兼監督となりました。
毎日の二監督制は、この平和台事件により終焉をつげたのでした。
この事件がきっかけとなり、2年後の1954年には平和台球場にナイター用照明設備が設置されました。

1997年11月には、平和台球場はその歴史に幕を閉じ、完全閉鎖となりました。
長い間、お疲れ様でした。

これが「平和台事件」と呼ばれるものですが、どうですか?
秋田大会準決勝と若干状況が似ていますね。
私は試合を見ていないので真偽は確かではありませんが、一部の情報では秋田高校の執拗な時間稼ぎに対抗して、本荘高校監督さんが「故意に三振&ホームスチール」采配をしたそうです。
それよりも、雨天ノーゲームするぐらいなら、次の日に中断した回、スコアから試合を続ければこんな事件も起きないだろうに、と思うのは私だけでしょうか?
結論としては、故意に空振りを行った本荘高校の方が、西鉄ライオンズよりも一枚上手でしたね。

ともかく、本荘高校甲子園出場おめでとうございます。
甲子園本大会でもノビノビとした全力プレーを期待してます!

水野雄仁−徳島池田高校が生んだ高校野球界のスター「阿波の金太郎」【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

今日は水野雄仁さんです。

水野と言えば、徳島の池田高校時代から「阿波の金太郎」の異名を持ち、甲子園のスーパースターでした。
「攻めダルマ」の異名を持つ蔦監督率いる当時の池田高校は、その打撃力で知られ、「やまびこ打線」として他校を恐怖に陥れていました。
ちなみに蔦監督に関する書籍はコチラです。

水野は池田高校時代には1982年夏の選手権、1983年春の選抜大会で史上4校目の「夏・春制覇」を筆頭に輝かしい成績を残しています。
その打撃が注目された池田高校でしたが、清原・桑田を擁するPL学園との死闘、早稲田実業の荒木大輔との投げあいなど名勝負(どちらの試合も大差がついたが)を数々演じています。
今思うと、この頃の池田高校はまさに絶頂期。
最近は低迷が続いていますが、久々に甲子園で池田高校のユニフォームを見たいと思うのは私だけではないと思います。
今年の徳島大会でも、7月24日現在、池田高校は準々決勝に駒をすすめています。

プロ入り後は先発を経験した後、王・長嶋政権では中継ぎ・抑えと大車輪の働きでした。
池田高校卒の流れでしょうか、バッティングの評価も高く野手としてもやっていけたのではないかな、と個人的には思っています。

1990年には中日の鹿島忠投手がクロマティにデッドボールを与え、乱闘が起きた際に、乱闘を止めに入った水野ですが、

関係ないのに星野監督に殴られる

という不運なエピソードもあります。

巨人を1996年に退団した水野ですが、その後、メジャーリーグを目指しドミニカのウィンターリーグに参加、日本人初の勝利投手となっています。
その後、1999年にはコーチとして巨人に復帰、年上の槙原などには「水野コーチ」とからかわれていました。

現在は、野球解説者として精力的に活動されています。

あ〜、今夏は池田高校を甲子園で見たいですね〜(しつこい?)。

メガネっシュ痛恨の一撃!もらい泣きしました★【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

おはようございます。

今日は早起きです★
朝早く起きて、いきなり高校野球名場面を見てしまった。。

もう中毒です(泣)

場面は数年前の春の甲子園選抜高校野球。
準々決勝の東北高校−済美高校の1戦です。
9回裏まで6−2でダルビッシュ、メガネっシュ真壁君を要する東北高校がリードしていたのですが、マカベッシュつるべ打ち!
最後はサヨナラ3ランという劇的な結末です。

済美高校の校歌が流れている時のダルビッシュのなんとも言えない表情にもらい泣きしました(泣)。
その映像はコチラです。

これを見ると東北勢の優勝は永遠に無理じゃないか、と思ってきます。。

それにしても済美高校の校歌は斬新なメロディーですね。
今まではこんな曲調の校歌は甲子園では聞いたことなかったです。
そういえば小泉首相も「やれば出来るは魔法の合言葉」と言ってましたね。。

遠藤一彦−横浜不遇の時代の大エース。インテリ系容姿も好感度大★【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

今日は横浜大洋ホエールズの大エース、遠藤一彦さんです。

遠藤は、「大魔神」佐々木主浩の前の横浜の守護神です。
遠藤の魔球フォークはキャッチャーの構える位置で相手にバレていたそうですが、それでも打たれないとはさすがです。

入団時期がちょうど大洋ホエールズから横浜大洋ホエールズにチーム名が変わった年であり、遠藤引退の年には横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズへと球団が改名を決定した時期と重なります。

まさにミスター横浜大洋ホエールズです。

彼の有名なエピソードとして、クロマティ事件があります。

巨人の助っ人史上最強の呼び声高いクロマティは巨人に入団当初、ヒットを打つたびに塁上で自分の頭を指差し、
「お前とは頭の出来が違うんだよ」
のポーズをしていました。

当時は助っ人として実績もあまりないのに、傲慢なポーズ。

これに遠藤が立ち向かいます。

1986年、クロマティ相手に三振を奪い、クロマティのお得意「頭の出来が違う」ポーズをお返ししました。

ファンから大喝采を浴びた。

遠藤投手は当時を振り返り、「いつやってやろうかと思っていたら、ちょうど良い場面があったので、、」と語っている。

遠藤投手と言えば、一時期はアキレス腱断裂という大怪我をしながらも、見事にカムバック。その後も横浜の守護神として活躍しました。

アキレス腱断裂の際は、ランナーとして2塁を回ったところだったのですが、アキレス腱断裂しながらもケンケンで3塁は向かうその姿は、まさに不屈の闘志!
感涙ものでしょう。。

容姿はかなり知性派のイメージがあるのですが、大学時代は設計士を目指していたそうで、遠藤が地元福島に向かう電車の中で必死に説得し、入団にこぎつけました。

「当時東北新幹線があったら遠藤は入団していなかっただろう」

とは当時のスカウトの言葉です。

現在は野球解説者をされています。
その容姿を活かし、俳優経験もあるのでこれからの活躍に期待します。
将来的には横浜の監督やってほしいです。

最後に、現役時代は

あの達川(広島)にかなり打たれていた

ことを付け加えて今回は終了とします。
お後がよろしいようで。。


この本、いいかも。遠藤さんのインタビューもあります。

プロ野球ドラフト素材−プロ注目の二人(埼玉大会)【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

もうすぐ日曜日が終わってしまいますね。。
あぁ、至福の時間が過ぎ去ろうとしている(泣)
明日からまたお仕事です。

さて、今日は高校野球、埼玉県大会に注目してみたいと思います。
個人的には今年の埼玉大会は注目です。
ドラフトの注目となりそうな二人の投手が頑張っています。

一人目は鷲宮高校の増渕投手。
増渕君については、結構ニュースになっていたので知っている人も多いかな?
今春の埼玉大会を制し、関東大会に駒を進めました。
かなりの速球派で、豪快な球を投げるそうです。
直接みたことがないのが残念。
鷲宮高校は今日行われた4回戦も7回コールド勝ちで、危なげなく勝ち進んでいます。甲子園でぜひ見たいなぁ!

二人目は埼玉栄高校の木村投手。
昨夏は2年生ながら、埼玉県大会決勝に駒をすすめました。
相手は春日部共栄高校。
9回2死までリードしながら、悲劇の逆転負けを喫しました。
木村君も140km代のストレートを中心に、変化球(スライダーだった記憶が)も素晴らしい投手です。
ドラフト会議で、ぜひプロに指名されてほしい選手です。

、、、

って今日の4回戦で埼玉栄高校は市立川越高校に負けてしまいましたね。
彼も甲子園で見たかった一人ですが。。
さすが、埼玉!簡単には勝ちあがれませんね。。

その他、埼玉には春日部共栄、浦和学院など強豪私立高がしのぎを削っているので、どこが甲子園への切符をつかむのか、大注目です!
頑張れ、高校球児達!

ちなみに、昨日の日記に書いた青森高校ですが、準決勝で青森山田高校に負けてしまいました。。
先制したものの、最後は地力の差が出ましたね。
次に県立高校が甲子園に行くのはいつになるやら。。
しばらくは光星学院、青森山田の2強時代が続きそうです。



田尾安志−円月打法+初代楽天監督【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

今回は田尾安志さんです。

田尾と言えば、今となっては楽天監督のイメージが強いですね。
笑顔で指揮を執っていたのがいたのが印象的でした。
仙台では人気が高く、解任が発表された時には仙台で解任反対の署名活動が展開され、最終戦(福岡Yahooドーム)では「田尾」コールが起きたほどでした。
私も個人的には1年ではなく、もう少し監督やってほしかったなぁ、と思ってます。あ、ちなみに野村監督も好きな監督さんです。

性格は、見かけとは裏腹に頑固な一面があるようです。
その逸話として、中日時代に選手会長をやっており、選手会長として優勝時の年棒アップを球団に主張したのですが、球団側はのってこなかった。
結局チームは2位に終わり、シーズン後にフロントに対し、

「お望みどおり2位になりましたよ」

と発言。これが球団の怒りを買い、交換トレードで西部に出されたとか、、、真偽のほどはどうなんでしょう。
楽天監督時代にも、シーズンの大幅負け越しが決定した時点で、球団フロント側は若手を使うよう指示を出していたようですが、田尾監督はベテランを使い続けた点からも頑固の一面が見られます。

選手としては、「安打製造機」の異名を持ち(ちなみに「安打製造機」の異名を持つ選手は何人いるんでしょうね、、)、首位打者こそとれなかったものの、3年連続シーズン最多安打を記録するなど活躍していました。
田尾の「円月打法」はSMAPの中居君がマネしてましたね(笑)。
↑中居君は「ミュージックステーション」で本人の目の前でもやってます。
本人にはそこそこウケていました。

現在は、野球解説者に復帰しました。
「釣りバカ日誌9」にも俳優として出演しました。
更なる活躍を期待してマス!
そしてもう一度ぜひ監督やってください!


松本匡史−巨人軍の青い稲妻+メガネ【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

打者第一弾です。

今回は元巨人の松本匡史選手。
いや〜、この選手には愛着あります。
私の少年野球時代は彼の「青い稲妻」が私のテーマ曲でしたから。
あ、ちなみに足は遅かったです。
2番打者だっただけの理由で歌われていました(笑)

私が子供の頃は松本選手は巨人の不動の2番打者でした。

東京六大学リーグの盗塁記録を塗り替えたり、スイッチヒッターに転向となかなか派手な2番打者です。
なんといっても、あのメガネがチャーミング★
眼鏡をかけるプロ野球選手に親しみを感じるのは私だけでしょうか?
古田にしかり、土橋にしかりです。
「青い稲妻」のニックネームは、その俊足、そしていつも青い手袋をしていたことから名づけられました。
1983年に記録した年間76盗塁(!)って、凄すぎです。
現在でもリーグ記録です。
これからこんなに走れる選手は出てくるのだろうか。。。

今は東北楽天ゴールデンイーグルズのヘッドコーチ。
楽天は走れる球団になるのか、注目です。

松本のジャイアンツ入団の経緯には長嶋監督(当時)の意向が強く働いていたみたいです。
やはり長嶋さんのパワーは只者ではない。。。

ちなみに下の本は、守備、走塁のみに特化した珍しい野球本です。
著者はもちろん、松本(緒方耕一との共著)です。

青森高校快進撃!頑張れ−高校野球【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

プロ野球ファンと共に、高校野球大好きのヒカルです。

私は青森生まれのため、いつか東北勢に優勝旗を、、と思ってるのですが、なかなか難しい(泣)。

そんな最中、青森県随一の進学校、青森高校が県予選で準決勝まで駒を進めています!
私が子供の頃には「しっかり勉強してセイコー(地元では青森高校のことをセイコーと呼ぶ)に入らなきゃ」なんてプレッシャーかけられてました。
中学時代に物理で100点満点中20点を取った時点で夢破れたわけですが。。
そんなセイコーが準決勝進出!
これは興奮します。

青森はこの数年、青森山田、光星学院の私学が飛びぬけていますから。
また、子供の頃の話ですが、タクシーの運ちゃんに
「甲子園に行って、プロ野球選手になりたい」
と話したら
「んだら、山田だな」(翻訳:なら、青森山田高校だな)
と言われました。

青森県勢ならば、どこでも応援しますが、今年は進学校、そして県立の青森高校にぜひ甲子園に行ってもらいたい!
なんでも、エースの小鹿君はプロ注目の逸材らしいです。

頑張れセイコー!
次は山田高を撃破だ!

村田兆治−ロッテの英雄:マサカリ投法【プロ野球★伝説のチーム−選手名鑑Blog】

どんどん行きましょう!

今回は元ロッテの名投手、村田兆治投手です。
昨年はロッテの日本一で盛り上がりましたが、この村田投手の頃にもロッテは優勝してるんですね。私はまだ生まれてませんでした。

ただ、あのマサカリ投法と切れ味するどいフォークボールは印象に残っています。
元阪急の山田久志さんが語るには「次、フォークで」と言って、実際にフォークを投げて打者を空振りさせていたそうです。
そんな切れ味するどいフォーク、人生で一度ぐらい投げてみたい。
打者も、フォークとわかっているなら振らなきゃいいのに、と個人的には思ったりもしますが(笑)

このフォークボールの習得には、村田選手もかなり苦労されたようです。
指にボールを挟んで、縄でボールを縛り付けたまま寝てみたり(これ、実は私もやったことあります)、握りを深くするために

中指、人指し指にナイフ

で傷をつけたこともあります(これはさすがやったことないです。汗)。

暴投の数も歴代圧倒的に一位ですが、これはフォークの切れ味がするどく、キャッチャーが対応できなかったという方が正しいかもしれません。
佐々木や野茂のフォークよりも凄いのかな、、、

なお、2005年に野球殿堂入りを果たしました。
おめでとうございます!

村田兆治投手のような豪快で特徴的な投手が、今のプロ野球界にも現れてくれることを願ってやみません。

ちなみにこの村田投手、
50代にしてまだ140km出せるらしい。。。
怪物か?

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